すべてはコミュニケーションのために

去る6/27suac+403architectureの協働プロジェクト「みんなのにわ/represent_garden」は無事終了した。リサーチ+制作の濃密なワークショップは、構想一ヶ月、実働一ヶ月、総予算10万円という非常に厳しい条件で行われた。
通常授業もある中、単位もお金も出ないこのプロジェクトに積極的に参加してくれた学生には本当に本当に感謝しています、どうも有難う。

さて、この厳しい条件を乗り越えることが出来たのは、ここに、2つのフェーズで高度なコミュニケーションが存在していたからに他ならない。
一つめは、プロジェクトの枠組みを決定するメタレベルでの主体コミュニケーション。
このプロジェクトに関わった主体は、非常に多様である。学生、403 architecture、若手建築家、ゆりの木商店街、地元企業、まちづくり団体、行政、大学、良質な商業主とその若手ネットワーク、各種マスメディア、アーティスト、空室オーナー。年齢も背景も違うそれぞれの主体の共通点は、皆、「中心市街地がやばい」と思っているということである。それが、コミュニケーションツールとして発動していた。「中心市街地がやばい」ということを最初の時点で共有出来たから、皆快く関わってくださったのだと思っている。

結果的にではあるが、それぞれがこのプロジェクトを捉える視点、というものがあった。403と学生にとっては自分たちの「実現の場」であり、行政や商店にとっては「まちづくり」であり、マスメディアにとっては「学生が街にコミットし始めた動き」であり、アーティストにとっては「創作の機会」である。その複合性を担保したのが「中心市街地がやばい」という概念の共有とそれに伴なうコミュニケーションなのである。そして、私個人的には中心市街地をどうにかするために仕掛けたのではなく、社会関係資本を浜松に投下するために仕掛けたのである。あるいは、403的には、実現の照準を見極めた結果である。これだけ多くの意図を投入できる「中心市街地がやばい」という概念にはとてつもない価値が内包されているのである。そこを最初に見極められるか否かが勝負の分かれ目で、403は例によってそのために膨大な議論を行った。

2つ目は、学生同士、あるいは学生と他者とのベタレヴェルのコミュニケーションである。今回、学生にとって高度なコミュニケーションのきっかけとなったのは「実現する」ということ自体である。

テーマを空室に絞ったことも「実現」の照準を見極めた結果である。空室であれば、上記のように多くの主体が意見を共有しやすく、敷地を選んで建築を作るよりも、規模が実感出来るレベルで管理体系も明確で場所を確保しやすい=圧倒的に実現しやすい。さらに、何度か言及しているように、大学のフィクショナルな課題ではなくて、眼前に迫り来る「実現」に向きあうことで、学生たちは自らに立脚して、非常に具体的な議論を展開した。ギャラリーを開きたいのなら、まず知り合いにアーティストがいるのかをプロジェクトの条件にする。この素材を使いたいのなら、まずそれが安価に入手可能でかつ施工も学生で出来るのか、を検討する。こうした論理展開を繰り返すうちに次第に安価、自分のつながり、施工可能性という前提を共有した状態から具体的で高度な共有が発動するようになっていった。

こうした高度なコミュニケーションを持続的に行ない、結果的に、「実現」という高度な目的を達成し、学生同士の社会関係資本は蓄積された。

心から幸せな運動体であった。

もちろん、中心市街地への明確なビジョンの提示や、郊外や車社会との連動性の確保、移民問題への接続など、「意識した方が、プロジェクトの専門性の射程が伸びる」要素は多くあったと思う。シンポジウムで403のスタンスを問われたこと(もっとメタに振舞えよという批判)も、専門的な見地からのビジョンの欠如が起因していた。
この批判に対して、個人的には「専門的な見地からのビジョンの提示」の有用性が、専門性の担保だけにあるのなら納得はいかない。そこに寄与する必要性は実感出来ないからである。専門的な見地からのビジョンの提示もあくまで「高度なコミュニケーション」の発動のためにあるべきだと思っている。あれが、もっと高度なコミュニケーション出来たよね、という批判だったのであれば甘んじて受け入れようと思っているし、多分藤村氏は後者の意味で批判を投げてくださったと思っている。来年に続くプロジェクトに反映したい。継続する、ということも良質なコミュニケーションのための要素の一つなのである。
論理も、言葉も、建築も、中心市街地の問題も、学生にお金がないことも、空室も、まちづくりも、専門的難しい議論も、私がここにいることも、すべてはコミュニケーションのために。

403 architecture/浜松建築会議実行委員 辻 琢磨